ほんとうに聞く

 聴く耳のなくて聞こゆる不思議かな」(稲垣最三先生)耳はあるけれど、なかなか聞こうとしない凡夫の心、聴聞しようとしないのに、聞かそう聞かそうと目に見えない大きな力がはたらいて、聞かせてもらえる不思議に感じ入られた句であります。
 また「九十年何を聞いたか覚えたか、本願名号ただひとつ、よばれて帰る親のふるさと」とも詠まれ、きばって聞いたと思っていたが、実は如来さまの方から聞こえさせていただいたのだと気づき、九十年もの長い間聞いたけれど何を聞いたか覚えたか、聞いた覚えたかには何の要もない。ただ南無阿弥陀仏のお名号だけで、親によばれて帰るふるさとのお浄土だと喜ばれたわけであります。いくらみ法を聞いても自分の得手勝手に都合のよいように聞いては、何もならないことです。「親から貰った眼も耳も、あるのに心働かず、私をはなさず護りづめ、親さま居ますと知らされ、ほんに嬉しやナモアミダブツ」仏さまのはたらきづめのお姿を他力と言われるが、本当に「他力と言うは如来の本願力なり」と、行巻に親鸞聖人はお示しくださいましたが、悪人救済といわれるが、悪人がすくわれるのではありません。真に聞かされ如来の「ひかり」に照らされて悪人であると知らされるのであります。
 木村無相さんの詩に「お助けお助けというけれど、今お助けと知らなんだ」とありますように、救済は死んでからではない、無条件のお救いをいただいた今、往生すれば必ず仏さまにならせていただくと、今救われていることに気づかせてもらうのであります。他力回向とは、この如来さまのいただきものなのです。
 仏法を聞くこと、聴聞。聴はつまびらかに聴く、一生懸命に聞くことですし、聞は自然に聞こえてくることをあらわしています。従って仏法を聴聞するのは、聞こうとすることによって聞こえてくださるものと思えます。
 「仏の声を聞くー月々のことばー」(福田杲正師)本願寺出版社