「日々の暮らしに追われて、念仏をする時間すらない人は、救われないのか」ーひたすら念仏をとなえれば救われるという法然の教えを受けた親鸞は、越後(新潟県)に流されて以後、貧しい人々が懸命に生きる姿を見て、念仏に対する独自の思想を確立していく。
信心と念仏
一般的には、われわれが思いを込めて神仏に祈ることを信心というが、真宗ではそのようにはとらえない。
信心とは、どんなことがあっても、必ず浄土へ救うという、阿弥陀仏の本願を聞きひらいた、疑いのない心をいうのである。
すなわち信心は、阿弥陀仏よりたまわる真実心のことであり、煩悩に根ざした凡夫が往生するのには、この仏の真実心を頂くこと以外にはないのである。
親鸞は、往生するための「行」は凡夫にかわって阿弥陀仏が修し、凡夫がとなえやすいように「南無阿弥陀仏」の名号として与えてくださるものであるとする。そしてその名号をすなおに受け取るという「信」も阿弥陀仏のはたらきによりいたり届くものであるとし、凡夫の側から起くものではないと説く。
したがって、「行」も「信」も他力回向のものであり別のものではない。真実の信心をいただくということがそのまま、「南無阿弥陀仏」とお念仏申す身となることである。
本願他力
他力というと、「他人まかせ」という意味で誤解されがちだが、そうではない。他力とは阿弥陀仏の本願力のことをいう。
本願とは、真宗根本聖典である『仏説無量寿経』に説かれるもので、阿弥陀仏が悟りを開く前、まだ法蔵という菩薩のときに起こした四十八願(誓い)をさす。
そのなかでもとくに第十八願は、「私が仏となったとき、あらゆる衆正が、私のまごころを受け取って、疑いなく信じ、私の国(浄土)に生まれようと願って、南無阿弥陀仏と私の名前を称えるであろう。もし生まれることが出来ないのなら、私は、仏とならない」と誓っている。この誓いを、長期間の修行によって成し遂げ、悟りを開いたのが阿弥陀仏である。
このように、衆生に「南無阿弥陀仏」という名号を与えて救うという阿弥陀仏の本願のはたらきを、他力というのである。
しばしば、他人まかせで何もしないという意味で「他力本願」と誤用されることがあるが、本当は、むしろ、阿弥陀仏のほうより智慧と慈悲を恵まれることによって、力強く、明るく、精一杯生き抜く人生が開かれてくるのである。
悪人正機 あくにんしょうき
悪人正機とは、悪人こそが阿弥陀仏の救いの目当てだとするものである。「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(『歎異抄』第三章)という言葉が、悪人正機を語るものとしてよく知られる。
ここでいう悪人とは、どんな行によっても迷いを離れることのできない救われ難い凡夫のことである。その凡夫を見捨ててはおけないというのが本願の本意である。阿弥陀仏の願いは、このような悪人の救済のためにおこされたと説かれる。
ただし、悪人正機の教えは、悪行をすすめるものと誤解してはならない。真実に背を向けている悪人を、真実に向かわしめようとする阿弥陀仏の願いであることを、心得るべきである。
※うちのお寺は浄土真宗より